Twitter辞めて本当に良かった⋯⋯

というのは嘘で、この記事はむしろ私が熱心にツイートしていた時代にTwitterの何が良かったのかを思い返して述べるものであって、何が悪かったのかについてはすでに巷で無限に議論があると思うし、そのほとんどに私は同意するだろうので、ここではあまり言及しないでおく。

「Twitter辞めて本当に良かった⋯⋯」は、いつから始まったのかはわからないがそういう定型文のミームであり、Twitter上でそう呟くからこそ面白いのであって、今回は単に私がそれを懐かしんでいるから表題にしたに過ぎず、特に意味はない。


まずそもそもなぜツイートしなくなったかというと、それ以外のことで忙しいからである。私が移行先として使っているNostrも、今はほぼポストしておらず、見てもいない。使っているかどうかでいうと、どちらかと言えば今のところTwitterの方が使っていると言える。ただ、本拠地はNostrであるという意識は捨ててはいない。今後も何か短文投稿することがあればNostrに流す。Nostrの何が良いかという話は別で記事にするかもしれない。

では何に勤しんでいるかというと、色々である。以前から作ろうと思っていたソフトウェア開発にいよいよ本腰を入れ始めたり、DJ趣味が飛び火してDTMに手を出すなどした1。主にこの2点が今の私の生活の大半を占めている。あとはゲーム。


ここからが本題。ツイートしなくなって感じたのは、何かについて本格的に思考することが明らかに減った、ということだ。これは私の狙い通り(前述したような趣味のために手を動かす時間を確保したかった)ではあるので、後悔してはいないのだが、ツイートするという行為が私にとっていかに思考を触発するものであったかということに気付かされ、少し不思議に感じた。

これはあくまで「私にとっては」という注釈付きなのだが2、連ツイすることで「意識の流れ」をそのままに実現していたようなものかもしれない。しかし、単にそれを実現するだけなら、プライベートなメモ帳などに適当に一つ一つ書きつければ済む話である。しかし、どうにもそれはやってみたところで(ツイートのようには)続かないだろうということは予感できる。ではそれはなぜか、と考えたときに思い当たるのは「張り合い」くらいなものだろう。意識の流れをパブリックな場で垂れ流すことは、様々な危険が伴うことではあるが3、むしろそのような危険があったからこそ筆が進んでいた、という側面があったことは確かだ。少なくともある程度は、後から(あるいは外から)読み返して意味が通るような文を書かなければいけないし、社会不適合的な考えをある程度は社会適合的な表現でラップしなければならないし、考えは一貫していなくてもいいけれどもその変化がわかるように書いておかなければならない4。これは読みやすさのためだとか、記録のためだとかではなく5、そういう神経を働かせることで辿り着ける「思考の境地6というのがあったのである。脳トレと言い換えてもいい。つまり、プライベートなメモ帳に書いていただけでは考えもしなかったような帰結に思い至ることができる、ということだ。仕組みはわからないが、シンプルに思考継続力や直観力にブーストが掛かるのである。私は以前から、よく言われる常識に反して「Twitterは議論に向いている」と感じていたが、その実態はそういうことだったのかもしれない。

もちろん、パブリックに思考を垂れ流すことで外部からのアイデアが飛んでくることもあり、それによって初めて到達できる思考の境地もある。しかし、その恩恵を受けるためにはまず自分の思考力が持続している必要がある。ツイートによって思考することは、私にとってその前提を確保するために必要なことだったのである。


上述したような点以外で、ツイートすることによる利点は特に感じない7。というか、私にとってその利点は同時に欠点でもある。仮に私が執筆作業を本懐とする人間であれば、何かについての思考はそれについての執筆を捗らせるが、残念ながら今の私はそのような意欲をあまり持っていない(まったく興味がないわけではないが)。Nostrでもほぼポストしていないのはそのためである。最近は短文投稿SNSの代わりにYouTubeを見ていることが多い。今考えると、私が数年前まで盛んにTwitterをやっていたのは、おそらく今やっていることの「準備期間」だったからというような気がしている。

「良いものができる」と信じることができているときは、とても捗る。逆に言うとそのときぐらいしか生きている実感がない。


Footnotes

  1. 楽曲制作者としての名義をこちらに繋げるつもりはない。

  2. とはいえ実際、一定数の人間には同じことが当てはまるのではないかと思う。

  3. その危険が何かということにはここでは深く触れないが、ざっくり言うと、プライベートな場では問題にならないような考えが一瞬でグローバルに配信されることからくる様々な問題のこと。

  4. もちろんこれは誰に課されたわけでもなく、実際に徹底できていたわけでもない、単なる私の内的自然である。

  5. むしろ私はある時期から、私の短文投稿を私の思考の記録として捉えることは、他者からはもちろんのこと自分から見ても、長期的に考えると非合理的であるという考えを抱くようになった。それらの記録からでは、いくら注意深く書いていたとしても、当時の自分の現状認識と意識の流れにはどうやっても辿り着くことができないからである。ここら辺の捉え方は人によると思う。思考のうんこである短文投稿よりはむしろ、当時観ていたアニメのワンシーンや読んでいた本の引用などの方が私にとっては記録としての価値がある。

  6. これは一次元的な価値判断に基づく概念ではなく、マインドマップ的な平坦な空間における、単なる一部の領域をイメージしている。そのような領域にある帰結が、必ずしもそれ以外の領域にある帰結よりも優れていると言いたいわけではない。到達できる領域が広がるという話である。

  7. 強いて言うなら「人間関係をやれること」くらいだろう。私の欲動は基本的に自分一人で閉じているので、自分を含む人間関係には根本的には意義を感じない。