Web2.0の功罪の罪の部分

Web2.0時代のWebアプリケーションたちは、ユーザーがインターネット上にアップロードしたデータが引き続き自分のコントロール下にあるというまやかしを人々に信じ込ませてしまった。画面に「削除」ボタンと「編集」ボタンを白々しく提示することによって。


本来、インターネット上に何かをアップロードするという行為は、メッセージをボトルに詰めて海に流すようなものであり、少なくとも物理レベルではそのコントロールを手放すこととほぼ同義だ。ユーザーアカウントはボトルが最初に辿り着いた先と連絡をとる手段にすぎず、「削除」ボタンを押して「削除しました」と表示されたからといって、実際に削除されたかどうかなどわからない。それは引用符付きの「削除」にすぎず、論理削除かもしれない。さらには、もしそのデータがほんのひとときでもインターネット上に公開されている状態であったのなら、誰がどこにデータを複製しているかなどわからないので、アップロード先のサーバー管理者ですらその実態を知ることはできない。

そのような事実を知らない人々に対して、アップロード後にあたかも引き続きデータがユーザーの独占管理下にあるかのようなUIを提示するのは、もはや計画的な犯行といっても過言ではない。なぜなら、仮に利用規約において、ユーザーがアップロードされたデータに対する一部の権利を事実上引き渡すということに合意していたとしても、特にリテラシーのないユーザーはそもそも利用規約など読まない1。また、実質的に削除および変更の権利が全世界に奪われることになると知れば、そのWebアプリケーションやプラットフォームを利用することを躊躇う人々が現れ始めるのは、少なくともこれまでの人類の利己的さを考えれば自明の理であり、ビジネスとしてWebアプリケーションをやっていくにあたってユーザー数というのは土台であるから、多少欺いてでも最初に人々をユーザーとして取り込もうという魂胆が働くのは理解できる。

しかし、それでもWeb2.0アプリケーションは人々を欺くべきではなかった。あの時代は、人々がまだインターネットを知らなかった。そしてより悪いことに、今や人々はインターネットを誤解している。「無断転載禁止」「保存禁止」「削除要請」⸺などと、自分がボトルを放った海に向かって叫んでいる2。この滑稽な状況は、Web2.0アプリケーションが人々に取り入るために、インターネット上にあたかもユーザーが家や庭を持っているかのように錯覚させたことによって引き起こされたのである。各々の承認欲求などは、それを加速させた燃料にすぎない。

アップロードされるのが、人々がまだ扱い方を掴みかねていた電子情報であるという点も、この錯覚に寄与した。それとはつまり、電子情報は完全に同じコピーを複製できるという点である。物理情報(物体)は少なくとも現在までの人類の技術水準では分子レベルで複製することなどできないので、ユーザーが物体の扱いとの類推を電子情報にも当てはめてしまったのも無理はない。しかし、ここにおいてもボトルメッセージの比喩は成り立つ⸺アップロードとは、より正確には、単に自分でメッセージを複製して海に流すようなものだ。オリジナルコピーが少なくとも自分の手元にあるのだから、同じデータの載った全てのコピーは完全に自分の権限下にあるのだ、などという考えは、全人類が今すぐ捨てるべき虚妄である3。その事実を、「削除」や「編集」ボタンが見えなくさせているのである。

インターネット上のデータの「削除」「編集」は、最も正確な表現では「非表示」「フォーク」とするのが適切である。仮に「削除」「編集」によって内部で実際にデータの破壊的変更が起こっていたとしても、それをユーザーが知る術がない以上、そう信じ込ませておくのは危険すぎる。理由の根本はすでに述べたが、そこから導かれる事態として、ローリテラシーユーザーが考えなしにセンシティブ4な情報をアップロードしてしまい、その結果本人が不幸になる、などは容易に考えられる一例である。インターネット上にアップロードしたデータを完全に削除しきることは、少なくともユーザーの視点からはできないし、公開するならばWebアプリケーション提供者の視点からすらもできない、ということをWebアプリケーションはUI上で赤く大きく警告しておくべきだった。


要するに、人類にインターネットは早過ぎた、というありきたりなまとめ方になる。ここまで貶してきたが、Web2.0アプリケーションの設計者にとっても早過ぎたのだろうし、ハンロンの剃刀が正しいケースもあるだろう。とはいえそのようなアプリケーションから「削除」「編集」ボタンを無くすという選択は誰も採ろうとしないだろうから、もはや引き返せないが、Web3時代のアプリケーションでは、ブロックチェーンやパーマウェブのようなアイデアに代表されるとおり、少なくとも情報の不変性は保証されたデザインになっていることから、順当に反省できているとは言える。

現実的な問題はWeb2.0アプリケーションを使うに留まっている人々の誤解をどう解くかであるが、これについてはまだ考えがまとまっていないのでそのうち書く。

Footnotes

  1. 残念なことにそのようなユーザーが大部分であるのがWeb2.0時代のアプリケーションである。

  2. 断っておくが、このようなことを言う人々すべてにリテラシーがないと言いたいわけではないし、リテラシーがない人々自身に問題の原因があると言いたいわけでもない。この記事はあくまで、論理削除うんぬん以前に、データをアップロードしたりダウンロードしたり、あるいは画面に表示したりする時でさえ、毎回データの複製が発生している、ということすら知らないような本当の電子機器初心者に対して、ナイーブな「削除」や「編集」という表現の操作を実行させてしまうWebアプリケーションのことを問題視している。データの被りうるあらゆる扱いの可能性を理解した上でアップロードするならば、それはその人の自己責任なのでここでは問題としない。もちろん、さらにその上でこのようなことを言う行為は、この記事で取り上げたような問題を風刺したパフォーマンスアートか、もしくは単なるウケ狙いと看做されることを免れない。

  3. 著作権やそれに類する法的権限によってそれが保障されていたとしても、である。法律はあくまで建前にすぎない。殺人が禁止されていようと殺人は可能であり、不可能であると信じ込ませて警戒しないようにさせるのは教育として正しくない。

  4. エロいという意味ではなく、パスワードなどの機密情報や、住所氏名などの個人情報、デジタルタトゥーとなりうるような自らの行為の証拠、などのこと。